一芸に秀でる
バントの名手・川相昌弘
◇ ◇ ◇ ◇
「オールマイティー」
いい響きの言葉ですね。
万能、何でも出来ちゃうスーパーマン。
では、歴史上の人物で「オールマイティー」だった人を挙げてみてください。
何人思いつきました?
私は…、
残念ながら思いつきませんでした。
1分野、2分野の中でのオールマイティーなら思いつくのですが…。
(勉強不足でスミマセン)
そんな訳で、今日は「一芸に秀でた人」にスポットを当ててみました。
◇ ◇ ◇ ◇
川相昌弘は1982年に岡山南高校からドラフト4位で巨人入りしました。
高校時代はエースで4番、陽の当たる場所を独占したスターでした。
しかし、プロの世界は甘くありません。
2軍在籍中に投手を諦め野手に転向。
しかも、長距離ヒッターではなかった川相は打撃力で自分をアピールすることはできませんでした。
しかし、当時2軍コーチだった須藤豊の熱心な指導により「守備要員」として開花。
そこから彼の「職人」としての野球人生が始まりました。
84年、王監督にその守備力を買われ1軍昇格。
打席の回らない守備要員として最初のシーズンを終えました。
初犠打は翌85年の6月13日対ヤクルト戦。
しかし、前年引退した名手・河埜和正のショート後継争いは厳しく、
岡崎郁、鴻野淳基、勝呂博憲の台頭もあって、
「第4の存在」に甘んじていました。
しかし、少ない出番を確実にモノにして、着実に「成果」を積み重ねていきます。
彼の「仕事」は、ランナーを得点圏に送ること。
つまり「送りバント」。
読んで字の如し「犠打」です。
自分が生きることは最初から考えない。
チームが勝つために「死ににいく」のが仕事です。
かつて高校時代にエースで4番という陽の当たる場所で「名門・岡山南の川相」と名を馳せた彼が、
プロという厳しい生存競争の中で見出だした最後の活路だったのです。
90年、和田豊の記録を抜いて年間犠打プロ野球新記録を達成。
翌91年に自ら更新した年間66犠打の日本記録は01年にヤクルトの宮本慎也に抜かれるまで、10年間不動の記録でした。
98年には平野謙が持っていた通算犠打451本を抜いて歴代1位に。
03年8月20日にはエディ・コリンズの大リーグ通算犠打記録の512本を抜いて世界一に。
04年に一時現役引退を発表するも、原監督退団に伴う内部抗争に嫌気がさしてコーチ就任を辞退、引退も撤回しました。
落合監督に請われて中日に移籍。
「一芸に秀でた選手を使う」という落合監督の選手起用方針に後押しされ、中日で復活。
落合監督のもとで、古巣巨人を撃破し、セリーグ優勝を果たします。
06年10月15日、ナゴヤドーム最終戦の対横浜戦が引退試合となりました。
この引退試合で決めた通算533本目の犠打が、今も世界一の「バントの名手」の偉大な記録の最後の犠打でした。
06年の日本シリーズには第5戦に代打で出場。
伝家の宝刀・送りバントを決めて24年にわたる野球人生の有終の美を飾りました。
◇ ◇ ◇ ◇
誰でも王・長嶋のような野球選手になりたい。
目標は当然「王・長嶋」或いは「イチロー」でしょう。
最高の目標を目指さないで自分が伸びることはありませんから。
では「目的」は?
川相昌弘さんの場合、大好きな野球を職業として、
プロ野球という厳しい生存競争の中で自分の本当の「活かし場所」を見つけること
だったのではないでしょうか?
「絶対にプロ野球選手として人生をまっとうする」
という「目的」を達成するために、
「目標」が変わったとしても、それは「目的達成」のための大いなる変更だと思います。
「よし、自分はこれで生きる!」
という「手段」を得て、目的達成のための人生設計をする。
ブレない目的を持つことが大切なんだよ、
川相昌弘さんの野球人生は教えてくれたように思います。
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発行者:湘南の鉄人こと
佐藤一志